2018-02-22

つつじ野(石巻かほく):750字(全8回)



つつじ野(石巻かほく):750字(全8回)
20171207~20180128(毎週木曜)


(1)来石
(2)なぜダメなのか考えてみる。
(3)タブー
(4)作品の感想を聞かれる時がある。
(5)「作品の行き詰まり」の対処方について
(6)写楽の線
(7)作品性と作家性というのがある。
(8)それを「愛」という。(終)


つつじ野:(1)来石
寒くなって来ましたが、話は夏に遡ります。リボーンアートフェスティバル2017の出品作家として、2年前より石巻に来る機会が増え、気がつけば今年の4月に引越しをしていました。それまでは千葉の柏市に住んでいました。千葉に8年。その前は水戸、その前は犬山(愛知)と、そもそも引越しが多かった。今回は妻がいるし、流石にリスクが高すぎて引越しは考えてなかった。ところが、リサーチのために石巻に何度か来るうちに、これは、引っ越さないと無理かもしれない!と思い始めました。何をしようとしたかといえば、石巻にギャラリー(多目的アートスペース)を作って、石巻の作家が運営していく仕組みを構築する。ちなみに私には実績があります。犬山と水戸に「キワマリ荘(多目的アートスペース)」をすでに立ち上げ、現在も代表が変わりながら運営されています。だからこそ、石巻にも!って話が私に持ち込まれるわけです。引越しを決意し、妻の説得に入ります。妻は元々私の作品のファンでした。今も一番のファンでフォロアーです。そんな妻を説得できない様では、他の鑑賞者を説得できるわけがない!ので作品の説明(なぜ引っ越す必要があるのか)を丁寧に時間をかけて話しました。正直に言えば渋々合意に取り付きました。アーティストは歴史にいかに名を刻むか考えながら行動します。もちろん、すぐに答えの出るモノではありません。とはいえ、何も考えずに作品を作っててもダメなのです。ーーー展示期間が終わりを迎えた頃、これからどうするの?帰るの?と、聞かれる様になりました。いや!?あの!?引っ越して来たんで!!。まだまだ皆んなの信用を得るために頑張らねばと思う日々。石巻の冬が来る。


(2)なぜダメなのか考えてみる。
前回、何も考えずに作品を制作するのはダメと言ったけど、なぜダメなのか考えてみた。全ての縛り(枠)にはルールがある。個、家族、街、学校、国、スポーツ、アート、漫才、マンガ、、、(名が最初の縛り)。自由とはルールの中にある。ルールの無い自由は自然。そうなったらバトルロワイヤル。弱肉強食。もはや集団を維持できないし、点数で競うこともできないからゲームにならない。目的を持って高め合うことができない。みんなで楽しく平和に生きて行くためにはルールはいる。話をアートに戻すと、作品を作るとき、どのジャンル(集団)に入り、どんなルールを守らなくてはいけないのかを知る必要がある。なぜか、そのジャンルの目的(可能性)を高めなくてはならない。そして高めた人の名が残る。歴史に名を残したいならこれしかない。ただ、ルールにとらわれ、こうでなければならない!と思った瞬間。マンネリズム、自己模倣に陥りやすい。こだわりや縛りは、時間が経つと心地よい。心の拠り所となる。鎖の自慢、不幸自慢が個性につながって行く。脅かすものを排除しようとすると、目も当てられない。結果、天然に翻弄されることになる。何しろ発見は枠の外にある場合が多い。やってる方も見てる方も飽きてくるから、少しづつルールも変わってくる。子供の頃に知った知識だが、有名な味噌ラーメンの宣伝文句「変らぬ美味さ」。しかし、何年か毎に味を少し変えているらしい。客が味に慣れ、飽きるから。ホントかウソかは問題ではない。なぜ心に残るのかが重要だ。普通に考えても、現状維持が一番難しい。何もしなければ、緩やかな死が待っている。少しでも上を目指して挑戦することが現状維持。そんなわけで、柔軟にルールを守ろう。


(3)タブー
アートでもタブーは無い様でたまにある。作品批評で「これはダメだよ!」って言われて、ソレが道徳的なコトだと。金脈を発見した気になる。たまに、ソレに気づいてなくて、落ち込んでる作家がいると、パクりたい気持ちを抑えて教えてあげる(めったに、そういう場面に出会わないけど)。今では信じられないかもしれないが、20年前、評論家に「私はマンガやアニメの影響を受けて作品を制作している。」と話したら、それが記事に成った。マンガやアニメがアートにとってタブーだったからだ。今や、そんなコトは、どこ吹く風である。それが普通に成った。私が今取り組んでるタブーは、「作風を変える」である。ドローイング=線画(というジャンル)でそれなりに名声を獲得していて、40歳になった時、ペインティング=絵画を始めた。かなり色々な方に怒られた。「別にいいじゃん!」って思うでしょ。でも、作家や作品の商品価値って、そんなコトでガタ落ちするのです。「この人は、こういう作品!」と成ってたのに!、なんで変えるのか!。今死ねば歴史に残るとか言われたり。しかし、私は、以後の人生のモチベーションをとった。そして、もしこれがタブーなら、やり抜く意味はある。私の後を、道を使う人がいるかもしれない。とにかく進もう!と。私は、こういう考えを持っている。10年あれば何でもできる。努力の仕方や方法を間違えなければ、なんとかなる!。後は覚悟の問題だ。覚悟がなければ、言い訳ばかりして、詰めが甘くなる。覚悟があれば全て楽しい。今は40歳、あと10年は生きてるだろう。で、始めたんだけど、気づけば48歳。後2年じゃないか!!。怖い怖い。


(4)作品の感想を聞かれる時がある。
作品の感想を聞かれる時がある。そんな時、まずこう聞く。「あなたは、作家ですか?、趣味ですか?、作家志望ですか?」と。まず作家志望の場合は、では今現在は趣味ですね。作家になりたいなら、これから「志望」を付けないように言います。そして、作家か趣味かもう一度聞きます。趣味の場合、ただただ褒めます。初対面の時は特にそうします。嫌われたくないのではありません。作家は作品と作者の距離感が十分取れていて、客観視できますが、初心者は作品の批判、批評、感想でネガティヴなコトを伝えると、自分自身がダメ、存在がダメ、となり、最悪の場合、ただの悪口言いやがって!と成ってしまう。いやいや、あなたのコトを言ってるんじゃないんです。作品のコトを話してる。作品とあなたは違うんです!と力説しても声が届きません。ただ嫌われて終わり。この客観性は意外に難しい。若い時は、そういうトラブルを何度も経験しました。ゆえに、「作家です。」と、私の目を見て言える人にのみ、色々言います。例えば、作品の感想を言う時、あえて相手がイラつくコトを言う。すると、言い訳したり、別の話をしたり、時には激怒するときもある。正直、かなりのリスクを伴うので信用できる知人にしか言わないのだけれど、どんなにそこが作品として上手くいってなくても、本当にそれが自分の伝えたいコトだったら、変えないんですよ。で、次も同じコト言われて、凹む。でも変えない。それが個性。そしてこのやり取りで作品強度が上がって行く。鉄を鍛えるのと同じ。これは、まだ自分が分かってない人に使う手なんだけど、喧嘩してそのまんまってコトもある。これはもう、相手を傷つけただけだから、最悪です。だから信頼関係が築けたらって話になります。


(5)「作品の行き詰まり」の対処方について
「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えて見ました。ほぼ、達成感、マンネリ(自己模倣)による行き詰まり、でしょう。なので、初心に返る(自分は最初、何を表現しようとしていたのか。どんな目標を持っていたのか)。技術(思考)的変化なら、ズレ、抜き、足し、ねじれ。コンセプトを突き詰めて行く段階で、捨てて行ったモノがあるはず。本当は、面白かったり、気になってたアイデアでも、その時の目的に合わないから排除したものを、もう一度洗い直す(宝探し)。限界なら、作風変えるのもありだけど、鑑賞者がそれを望むなら、その人達のために作る。それが、嫌なら、家族のためと、制作することが望ましい。若い時は「自分のため」という自我エネルギーが全てのモチベーションに繋がっていくんだけど、歳を重ねると達成感が出てきて、そのエネルギーでは、モチベーションが維持できない。ってことに気がついてくる。そう成ったら、「誰かのために」っていうモチベーションに切り替えの時期。なので、行き詰まった作家に結婚を進めるコトがある。それを私は、「大人になったから」とは思わない。自分のため、他者のため、どちらも自分自身のためだ。人は自分の幸せ、気持ちいいコトを絶対に優先する。基本、川の流れや、転がる石と同じだ。目標をセットすると若干変えられるくらいだとおもう。日本のアーティストは達成目標がとにかく低い(それさえも達成困難な状況だから)。でもそれは、仕事として考えてないから。自己満足、自己治療の延長(覚悟決めれば、それも悪くない)。私から観ると、いやいや、もっと行けるよ、そのテーマで!と、思うこと多い。


(6)写楽の線
今回は写楽の線について考えてみる。私はドローイング(線画)作家でそれなりに評価を得ている作家であるので、当然いろんな線を研究した。その中で別格に凄いのが写楽の線である。もちろん世界中で、というう意味だ。写楽はどういう線なのか、一本一本で観た時は、何か足りない。短すぎるのか?細すぎるのか?、色のせい?わからない。とにかく、その結果、ゲシュタルトの影響で近くにある線(や色)を引っぱりこむ。すると当然その空間は歪み運動を続ける。その運動の連鎖が画面全体に広がる。その結果として、私には、写楽の首絵(ポートレート)が立体に見える。初めてそう見えた時は、自分の目を疑った。急にそう見えるように成ったからだ。他の浮世絵も見たが浮いて見えるのは写楽の首絵だけだった。顔の輪郭は黒では無く灰色。黒は、目、眉、髪で、上部が重く成るから、服の柄で黒を使い、散らす。顔の部品のバランスも凄い。顔は下から見上げてるのに、鼻は横からなど、部位の視点がバラバラ。とか、その鼻筋のラインはどこを描いたの?(この仕様は、鼻のラインだけではない。)これ、キュビズムじゃん。でもそうじゃない。これは、動いてる役者を1000分の1秒でとらえて描いているからこう成っている気がする。北斎の波の絵と同じ。それぐらいの瞬間を記憶できる(できた)。それがキュビズムっぽく成っている。究極なんだけど、描いてない線が見える。まあ、ゲシュタルトだけど(この技術は作品に生かしている)。まとめ、意図的に一本一本の線を不足にし、周りの線を引き込む。その関係性の力学で、線は空間的に立ち上がり立体に見え、部位のバランスが再構成され、私には振り返る役者が見える。


(7)作品性と作家性というのがある。
作品性と作家性というのがある。日本人は「作家性」の方を重要視する。作家性って何?。簡単に言えば、作者の生い立ちである。日本人はゴッホが好きだが、作品より生き様の方が優先されている。別の言い方をすると、良い作品と作品的に優れてなくても有名人の作品ならば、有名人の作品の方が価値がある、というコト。逆にいうと日本人は作品を作品として見れない、というコトになる。さらに別の切り口で見てみる。グーグル検索でアーティストの名前を検索する。日本語検索では、作者のポートレートが多い。英語検索では作品画像が多い。日本人は好きな作品に出会うと「どんな人が描いてるんだろう!?。」と検索する。英語圏は「他にどんな作品があるんだろう!?。」と検索する。どちらが良いとか悪いとかではない。そういう国民性だというコト。かく言う私も日本人なので「作家性」を重視する傾向にある。実はこっちの方が楽。勉強しなくていいし、自分の好みの話で終わるから。でも、自分の好みに合わなくても、良い作品は評価できる様に成りたい。そのためには、勉強しなくてならない。ルールを知って、皆は何を一生懸命頑張ってるのか知りたい。そうなると、別の切り口で作品を見ることができる。ついでに他の特性をあげる。日本人がアートを本気で突き詰めると日常に成る。日常になれば、なんでもありに成るので解りにくい。デザイン、イラスト、グラフィックを極めて行ってもアートに成るとしたら、こっちの方が向いている。海外の作品は英語でできている。日本の作品は日本語でできている。当たり前だが、この違いを理解してない人が多い。言葉の文法で、モノの自立(自律)のさせ方が違う。結果、作品の成り立ちも違ってくる。


(8)それを「愛」という。(終)
アーティストについて。例えば、10万円と100万円のギャラの仕事が来るとする。デザイナーは予算の中で、自分の取り分をまず取り、残りの予算内で作品を作る。これは(社会人なら)当たり前のコトなんだけど、アーティストは違う。どっちも全力で作る。その結果は聞かなくてもわかる?そう赤字だらけになる。昨年夏のリボーンアートの作家も赤字に成った作家がかなりいたと聞く。特に若い作家はその傾向が強い。その反面、学校の先生やってる人は、研究費を使わないといけないから丁度いいって話もある。とにかく、アーティストはそう言う人種である。さて、今回が最後の寄稿になってしまったから、少し自分のコトを書いてみる。私には、所有欲があまりない。それは、思春期に全て無く成ったコトがあるから。その時から、「モノは人にとられる」と思い込み、それが、所有する恐怖に繋がる。他者からの贈り物も怖い。戻るべき場所、あるべき場所が無い。「人にとられないモノ、絶対に無くならないモノ」の探求をする日々。絵日記の様にドローイング(線画)を描き続ける日々。家が燃えて、全てが墨に成った時、その墨で絵を描く様な生活。それが生きるコトだった。とはいえ、そんな悲壮な時期もあっという間に過ぎ、そんなこともあったなあ、に成って行く年月。最近こう言われた。「人生かけてますね」「そうかな」人生かけてない人生ってある?、ああ「かける人生がもう無いのか」歳をとるわけだ。私の生きた時間が線に成って世界中に散っている。私も49歳に成る。烏の声と風の音。石巻の春を待つ。答え:私が探していたモノのは、繋がり広がり包む「線」と言う空間。別の言葉では、それを「愛」という。(終)