2021-06-09

子供の頃に思った。写真とは.



子供の頃に思った。写真とは、欲しいと思ったモノを所有できる道具。絵を描くよりも早く車の写真を撮った。ある日、車の前に飛び出して撮影し、ひどく怒られた。トラウマになって、写真を撮らなくなり絵を描き始る。車を所有したかったわけじゃない。走ってくる車が欲しかった。そんなことを思い出した。


絵は貧しくても紙と鉛筆でなんとかなる。だからドローイング(落書きを極める)とかやってたわけだ。20年前に絵がかけなくなって写真を撮り出して、それなりに絵で稼いだお金で写真(フィルム)を撮りまくった。悪くないから続けた方が良いと言われたが、お金がなくなってやめた。


その程度の覚悟だった。写真を撮るいくつか理由があった。絵を描かなくても制作している感じになって自分を安心させれる。撮影することで、他者、社会との強制的なコネクト。風景をみる(歩き風を感じる)。結果、線について多角的に思考し、絵が上手くなった。


当時の写真は、覚悟のない人間や、貧しい人が簡単に手を出せるジャンルではなかった。日常的に努力しやすいドローイングとは違う。時は流れ、2010年のデジタル技術の進歩は凄かった。現像しなくていい、とった写真をすぐ確認できる。しかしまだデジタル一眼は高額だった。


2020年デジタル一眼を展示品価格で買う(オリンパスPEN(E-PL9)。小金が入ったので買える時に手頃なものを買った。PL10の商品入れ替えの為だろう、レンズにゴミ入ってたから、すぐ無料で修理する)。ただ半年間置きっ放しだった。桜の季節となり、妻との散歩に何気なく首から掛けた。


以前は、絵描きの写真と言われるのが嫌で勉強もした。20年前に写真にハマった時、「写真が上手くなったからってなんだ!」と言われて、それがずっと喉に詰まっていた。テーマがないから作品が作れない。それっぽい写真が撮れる技術が上がってくだけ。


そして石巻に来た。引っ越し、住民票を移し、スペースを作り、地元の作家だけで運営できるようになったら抜けて、別の場所で別のスペース運営し、文化(アート)を点ではなく線にして、面にする目標を立てる。絵を描く様に、この動き(行為)が今の私の(関係性の)作品になっている。


絵は自分本位で制作できる。画面には必要な線や色を自分で決めて置いて行く。無駄なものはない。しかし写真は、あるがままが写ってしまう。画面の四隅に注意を向けないといけない。自分以外のコトに真剣に向き合わなくてはいけない。私には新鮮だった。


石巻での私の動きは写真に向き合いやすいマインドにしていた。妻と桜を見に散歩に出かけ妻の写真を撮る。楽しかった。妻も私も自分の写った写真が嫌いなので二人とも、ほぼ子供の頃の写真がない。それは今も変わらなかった。そんな二人に突然起こったコト。何かが変わった。


愛知(犬山)でドローイングを「楽描きを極める」と言って毎日描いていた。37歳の時に絵がかけなくなって写真を撮り始めた頃に、水戸での展覧会の話があり引っ越す。全てをリセットした。その後に結婚したのも大きい。初めて他者と真剣に向き合ったのだから。


40歳に結婚と同時に柏(千葉)に移る。妻が病気の文鳥を飼っていて、そこに日本で1番の鳥の病院があると聞いた。柏に引っ越したのは、それだけが理由だ。その時、「妻に絵で稼いでほしい」と言われ、ドローイングでは無理なので、ペインティングを始めることにした。


あまりモノに成ったとは言い難いが10年かけてニューヨークやパリで個展開けるくらいには成った。そして石巻に移った。その場所に行けば、その場所でしかできないコトガある。石巻ではそれが、街のアートシーンの立ち上げだった。ドローイングで10年(30代)、ペインティングで10年(40代)、そして石巻(50代)は写真なのか!?。


私の絵画ば関係性の作品。自分と他者、社会の関係性を紙に落とし込んで行く。例えば、新聞の中央に白い絵具を拳くらいの大きさで塗り、そこに鉛筆で楽描きをして行く。それが街に拡大した時、他者や社会への向き合い方が写真に合って来たのかもしれない。27歳でキワマリ荘立ち上げてるが社会性の自覚なし。)


最近、写真のyoutubeをよく見るんだけど、上手くなるコツの1番は高い機材を買う。2番は「枚数を撮ること」まあ、あらゆることの基本「まず数をこなす」。今はデジカメがあるし(安くなったし)、youtubeで基礎の技術や知識は簡単に学べる。最高だ。確かに、撮りたい写真ができると向き合い方が変わる。


旅行雑誌やファッション誌に載る様な写真を撮りたい訳じゃない。写真を仕事にしたい訳でもない。ただ写真で作品が作りたいだけだ。ただ、penのモニターはチルト式で、自分が撮りたい写真にはバリアアングル式の方が良いと分かった。


f1.8で25mmと45mmどっちのレンズ買うべきか悩むに当たって、自分の撮りたい作品に向き合う。これは勉強になった。結局しばらく買わない決断。方針を決めかねている。縛りを作って、それに向き合う方法も面白いかもしれない。試しに写真集を作っている。今はそんな感じ。



つづく



2021-04-28

FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art: /2021/

  

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KAORU ARIMA
FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art: 

/2021/ 


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1)FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art: 

2)世界はやさしい、だからずっと片思いをしている。

3)ART DRUG CENTER:artrφn(アートロン)プロジェクト:

4)キワマリ荘の作り方: 

5)れんこんのなか: 

6)この言葉たちに支えられ目標にして作品を作っている。:

7)artrφn(アートロン)プロジェクト




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FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art: 


思えば、私は作家性重視の生き方(ロードムービー)を選んだ。そして「アートとは何か。人とは何 か。幸せとは何か。」を問い続けてきた。彫刻、ペインティング、ドローイングによって「私(人) の内と外」、「途中と永遠」、「社会との関係」を通して見える「私」。そして(私が死に、人間だ けが残ったときに見える)人の在り方と生き方。 


この作品(や場)は、
ファウスト(小説):生に執着し、努力し続ける行為。

去年マリエンバートで(映画):変化し続け終わらない永遠。

ミイラ肖像画:人の死と藝術による永遠。から影響を受けています。

この場(所)は、あなたにとって、始まったばかりですが、既に終わっていたり、未来で始まったり しています。

形は在り方、生き方で変化し続けます、繋がり広がる線のように。 


在り方:
1)線について ・空集の音の間に線は生まれ約束になる、約束は景に入り太極を持って風を待つ。

・手を重ねると線が生まれる。手を離すと線は消えるのではなく広がり、全てを繋げている。

2)人は「本来無一物」という空集合<空集の芽>を皆が持っている。 

3)1)と2)より、外は外で、内は内で(共有)繋がっている。

・モノは視点や思いによって見え方が変化するが、本質は変わらない。

 <うちはうちそとはそとのんじゃった> 


生き方:
・ずっと途中で先端。 

・生に執着し努力(変化)し続ける行為 。

・寿命(枠)があるから瞬間が美しい。 

・日常(日々)の中の美しさ。 

・何もない」の中にある美(愛)。
・太極思想 ・形にならないモノのを要素(形)として作品にする。 


まとめ:
形は在り方生き方で変化してゆく。

 人(形)とは「何」だ。
人が生きるとは「何」だ。

<うのなとなのまにまにせもしもしらずいのまふるふる>

<FAUST IN MARIENBAD>
<The quest for Art>


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世界はやさしい、だからずっと片思いをしている。

 

まず、時を遡ろう。1997年(28歳)当時の私は、自己治療(昇華)中。理由は、思春期に「何 の取り柄もない、落伍者、バカ」と、言われ続けていたコト、親戚が夜逃げ(父が連帯保証人だっ た)、我が家は借金返済のため全てを失い、その後離婚にいたり、極度の人間(自分も含む)不信に なる。簡単に言えば、自分と社会を恨んでいた。後に「本来無一物という言葉を知ったり、人は一番 大切なモノのために(良くも悪くも)嘘をつく」をポジティブに受け入れるまで。その頃に、とても 隠微残酷な「ART DRACULA」展を開催する。その時の芳名録に岩田さん(犬山のキワマリ荘の大 家、私設美術館の館長)が、こう記入していた。「せんは必要なくなったとき そこにあるのかも ね」。全く理解できなかった。彼は「鑑賞は真剣勝負、殺し合いだ!。変なもの見せると死ぬぞ!」 って人だった。 


<ART DRACULA> 

10年後の2007年(38歳)「マイクロポップの時代」展のために、水戸に引っ越すことにし た。1998年にto the Living Room 展(ワタリウム美術館)で「半年住む」という展示をしてい たコト。や、思いもよらぬ成功によって達成感が生まれ、作品が制作できなくなって(煮詰まって) いた、のもある。引っ越す時、岩田さんに、もらった言葉は「すべては覚悟の問題だ、頑張れ。」だ った。


<岩田さんの餞別書道> 

岩田さんの書は引っ越しても、常に目に入る壁に飾ってある。自分への戒めである。それから時が過 ぎ2019年(50歳)。岩田さんも向こう側に行ってしまった。今、私が彼のような立場になって いる。「せんは必要なくなったとき そこにあるのかもね」言葉の意味は今もわからない。今ここで してることが「そこにある」のかも。
 お前の作品は「アートではない」、「自分のためでしかない」と言われながらも、「それでもいい」 と歩み続けて来た。そう、これは、芸「術」ではなく芸「道」に(目的を)覚悟を決めた人(文化系 極道)の生き方でもある。そもそも「自分のため」以外の選択があると私には思えない。自分のため が「他者のためになる」か、他者のためが「自分のためになる」かの違いでしかない。「どちらが優 れてる」ではない。個の追求の果てに他者性もある。全ては、繋がっている、生も死も夢も現実も。 そしてずっと途中で、ずっと先端。生きる永遠、死ぬ永遠。 <うのなとなのまにまに せもしもしらずいのまふるふる> 

これを岩田さんに見せた時、「お前そのものだな」と言われたことを今でも思い出す。 だから「何」だ、と声がする。


<個の追求の果てにある他者性と、その奥にある風景> 

「ファウストを読め!!」岩田さんに再三言われた。思い出す度に読み返す。自己治療の作品が終わ った後で、もう一度大成する作家は稀らしい。その代表がゲーテの「ファウスト」らしい。 いつか、向こう側に行って、岩田さんに会えたら、「世界はやさしい、だからずっと片思いをしてい た。」って言うだろう。そして、多分「死ね!」って言われる。(終)/20190803 


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ART DRUG CENTER:「アートは人の心を治療する薬である」から名付ける。愛知県犬山市のキワ マリ荘内にあった多目的スペース。1997~2007年の10年間で141回の展覧会を開催。2019年宮 城県石巻市にて再開。 

+ キワマリ荘:愛知県犬山市に多目的スペースとして1996年にオープン。2007年に水戸に引っ越すこ とになり代表を変わる。2007年に水戸のキワマリ荘をオープン。2009年に千葉県柏市に引っ越す。 前回同様に代表を変わる。2017年石巻のキワマリ荘をオープン。2019年に地元の作家に任せ、近所 にART DRUG CENTERをオープン。 


artrφn(アートロン)プロジェクト:TRONプロジェクト(1984年に始まった坂村健によるコンピュー タ・アーキテクチャ構築プロジェクトで、「オープンソース」「オープンデータ」「オープン API」 を標榜。)への共感にARTを加えた造語。アート(美)が簡単に制作や所有ができたらいい。アートの オープンソース制作プロジェクト。artrφnのφは空集合を表す記号とキュービット(量子コンピュタ ー)の0と1の重ね合わせのイメージ。 


+ 近況:「ネオギガ」展(1994):絵画は楽描きを極めればいい、「継続と日常」展(1995):日常 がアートだ、「鑑賞と忍美。」展(2001):鑑賞の仕方で見え方が変わる。耐え忍んだ極みに美が ある。ART DRUG CENTERは「アートは人の心を治療する」など、私は常にアート(美)とは「何 か」を問い続けている「ロードムービー」だ。ここ最近は関係性だ、と思い色々してるわけです。そ もそも新聞紙の作品(1998~)も関係性と当時から言われており、その拡張としての「街(石巻): キワマリ荘:ART DRUG CENTER」がある。そして、全てがフラットに美しく成り「ぬす人に取り 残されし窓の月(良寛)」へ、と。 

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キワマリ荘の作り方: 


・あったらいいのに、無いモノ(場所)を作る。

・そこにいけば、仲間がいる。」という状況を作る。

・カリスマリーダーはいらない。その人が移動するとその場所に人がこなくなる。

・短期展望ではなく長期展望が重要。5年、10年先をみて動く。

・人よりも場を強化すること。

・失敗や成功を考えるより。やりたいことがあったら、やる。

・絶対に無理をしない。

・作家同士の感想(批評)を言い合える場所にする。
・一時的な話題性(を作る)に振り回されない。
・居間を作る。
・ここから、世界に発信しているという覚悟を持つ。 

・良いモノは取り入れる。しかし、表面上のコトだけを真似ない。 

・お互いに手を抜くから、グループ展はNG。ただし企画展はOK。

・一人一人の関係者は50人前後だが、3人個展できる環境があれば150人になる。 

・展示期間は1~二ヶ月。一週間だと、いくら良い展示をしても、人が来れない。 

・都会にあるギャラリーを目標にしてはいけない。関係者の数が圧倒的に違うし、情報の消費速度も違う。

・グループの思考が固まり澱まないように、風通しをよくするシステム(展示、企画)を作る。可能であれば、 メンバーの流動があればなお良い。

 ・とにかく待ち、才能を集める(固める)。そして、目的を持った方向を決める。1年近く営業してると、静観 してる人が動き出すので、その人達を確保。

・地元の未来を語る展示は地元の作家がやるべき。そういう場所を作り、育てようという場所。外部の作家やメジャーな作家に頼ってはいけない。自分たちが、そうなる。そうなるための展示をしていき、企画を立ててい く。

 ・一般の人にあまり期待しない。彼らにとっては、単なる消費情報の一つ。自分たちも同じ事を他のジャンルに対してしている事を自覚する。 

・ギャラリーは普通無料で鑑賞できる。なので、展示する側、ギャラリーはどうせ無料だし、と思ってしまうが実は、その人の時間や交通費を使っている事を自覚すべき。千円使った時にもらえる満足度を用意。

・経済的豊かさよりも、個人の幸福度を上げる。 

・絵画の作り方と似ている。点線面。まず下地(場所)、点(最初は首謀者)、点を集め、線に、そして面に。 まず、首謀者の目立つ点を画面に起く。点を集め画面のバランスをとる。最終的に首謀者の点を消して画面を整 える。さらにその場全体が点に成って新たな始まりの可能性。 


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 れんこんのなか: 


不自由は自由の海に有る浮き輪。キレイとは整理整頓。うつくしさとは調和。机の上を「うつくしくしなさ い!」とは言わない。うつくしいと感じる時は、後になってから、その瞬間は、自分も含まれてるから。左脳 と右脳、連想と例え、アレとソレが同じだと感じる事、感謝と恐怖、表現の始まり。答えは始めから存在す る、問題の方が重要だ。イコールの存在が厄介だ、同じにするために、数にする事。THE SUN COMPLEX & HEALING BY THE MOON。こころ」と言った。観た人の観たいモノへ。自分にとってのモノコトではなく感 じる。指で自分の顔の中の骸骨を触る、外なのに中にある。コマとコマの間、見えていないものを観るために は。見せたいモノは絵じゃなくて、その向こう。モノの形よりも、モノのあり方に美しさがある。物語。誰が 描いても、何枚描いても、美しさは劣化しない。空集の音の間に線は生まれ約束になる、約束は景に入り太極 を持って風を待つ。天才と馬鹿が紙一重なら、馬鹿側からが近いはず。よわくなる。楽描き。五感の0時0分0 秒を目指す。それでも生きてゆかねばならない。ここから、はじめよう。しゃかはきのした、だるまさんはあ なのなか。ふゆのきぎ、えださきにあめのつぼみ、そらがさく。しごとはいきること、しゅみはせいかつ。み らいはえだとねのさきに、いきることはかこもみらいも。ゆるしかんしゃいかりのさきわれ。うちはうちそと はそとのんじゃった。わとわとわ。うのなとなのまにまに、せもしもしらずいのまふるふる。日が暮れ、ご飯 を食べる、食べたいうちは生きたいんだ!と、感じる?でも、そういう所に、しあわせ」とか「うつくしさ」 とかの、始まりは在る。つづく。みること、きくこと、かんじること、遠近法を使わないで、あること。昔、 人は役割しかなかったのだろう、それに対応できない人が、バカにされ弾かれた、外に出れば、自由と孤独の 狭間に何が生まれる、今や逆転。スイッチではなくボリューム。多神を包む海。バランス。時=流+刻+間。 過去が存在するから、未来が生まれる、過去と未来があるなら「今」は点になる、今」が無くなれば、過去に 縛られ未来が消える。過去は記憶、宇宙は「いま」しかない。aとbの間を移動する、その移動時間を無駄と感 じるなら、一時間が十分になっても無駄。アートは人が自然(風景+時間+空間)を所有するための行為。身 を守り、勝ち所有し、自らが自然(神)に成る、しかし、区切る事によって生まれるモノは本来の姿ではない から、永遠に自然に到達する事はできない、それが、狙いか。名を付けて所有する、要らないモノは外に出 す、気づけば自分以外はゴミばかり。いのち」は何を所有しているのか、何か所有したいのか、もともと「い のち」は調和だし。いざと言う時、何を守るか、何を選んだにせよ、善悪はない、後で迷いさえしなければ。 覚悟さえ決めていればどんなときでも、幸せだったりするのかな。わたしたちは、いつも永遠のはしにいる。 わからでようとして、わをおおきくしてる、でるためには、わになるしかない、それでも、れんこんのなかだけ ど。ひとはわのなかを、じぶんのものとおもう、まるいたまのまんなかに、せんをひいたら、どちらがじぶん のもの。せんじたいがじぶんだ、ときづいたとき、わからせんになる、それでも、れんこんのなかだけど。き らなきゃいっぽん、はながさく、となりのはなが、ちょっときになる。しあわせ。等間隔に刻むリズム。今思 う、続ける事は難しい、特に現状維持は難しい。ぬくもり、あんしんかん、しんじて、うたがわず、いつか、わ たしも、そとからか、なかからか、そして、ありがとう。と、 


2009/11/06 有馬かおる


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この言葉たちに支えられ目標にして作品を作っている。


<一休宗純>

有漏路より無漏路へ帰る一休み

雨降らば降れ風吹かば吹け


生まれては 死ぬるなるけり おしなべて 

釈迦も達磨も猫も杓子も


白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露

年毎に 咲くや吉野の 桜花 木を割りて見よ 花のありかを


あるとみて なきは常なり 水の月

ないとみて あるは常なり 水の月


<良寛>

ぬす人に取り残されし窓の月

裏を見せ表を見せて散る紅葉


<小林一茶>

馬の屁に目覚めて見れば飛ぶほたる


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+近況


artrφn(アートロン)プロジェクト :


私たちは、(川のように)あらゆるモノ(コト)に流れがあり物語が生まれる(可能性がある)と思っている。ゆえに並行世界の存在に行き着いてしまった。しかし、そんなモノ(コト)は無いと考える。一神教や一点透視図法によって、脳(人)は生きるために物語(始まりと終わり)を望むように組み替えられた。。そして、私たちは他者を理解し合うことを目標や善としていて、それをより繋げ広げようとしている。しかし、私はこう思う。人は「お互いに理解し合わなくていいように、自分のままでいられるように」繋がり広がっている。そう、モノコトに起承転結は無くただ「今」があることを愛する。結論を求めず、関係性を愛し、広がったり縮んだりする揺らぎのある「朦朧とした輪郭」を意識する。宇宙と空のように、空と海のように。私たちは、ただ「ある」だけで、自分自身で「あり」、他(者)と繋がり広がっている。その中で私たちは「生きる」と言う表現をしている。









artrφn(アートロン):

TRONプロジェクト(1984年に始まった坂村健によるコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトで、「オープンソース」「オープンデータ」「オープン API」を標榜。)への共感にARTを加えた造語。アートのオープンソース制作プロジェクト。artrφnのφは空集合を表す記号とキュービット(量子コンピュター)の0と1の重ね合わせのイメージ。





2020-11-14

美術手帖「絵画の見かた」を読んで


美術手帖「絵画の見かた」を読んで(40歳まで抽象画が理解できなかった)私なりに絵画について考えた結果、以下の5つに絞られた。

1)良い絵は丁寧に時間をかければ誰でもできるが作品は違う。

2)日本は日本語で英語圏は英語で絵画を制作する。

3)日本は作家性、英語圏は作品性を重視する。

4)日本人はマンガ、アニメの影響で、画面の中にキャラがいないと絵が見れない。

5)日本人は、デザイン、イラストやグラフィティーから入った方が世界にいける。

個々の深堀はブログに書くことにする。:

http://arimaworks2011.blogspot.com/2020/11/blog-post.html



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私はドローイング一本で海外で展覧会をしていたが40歳の時からペインティングを始めた。その時に学んだコト。

1)良い絵は丁寧に時間をかければ誰でもできるが作品は違う。について:

そもそも絵画に使われる画材は今でも高いが、かつてはパトロンがいなければ手も足も出なかっただろう。人が着飾るように家も着飾る。人が高級な指輪をはめるように、部屋の壁に絵を飾る。そしてもう一つ、絵画は製作者の時間を封じ込める。その絵に使った時間を鑑賞者は一瞬で消費できたり所有できたりする。制作者の時間を所有できる。自分の人生に限りはあるが絵画(彫刻)は自分の時間を増やせる。それは映像画像ではできないファンタジーだ。丁寧に描かれた絵はそれが一瞬でわかる。それが良い絵だ。しかし、作品は違う。丁寧で時間をかけるだけでも作品になることがあるが、それは時代とリンクした時だ。逆にいえば、時代性(流行、批評性)を入れれば作品になる。それがネタ的(表面的)だったとしても素人にはバレない。分脈はあった方が良いが玄人しかわからない。


2)日本は日本語で英語圏は英語で絵画を制作する。について:

これはまず昔話をする。以前ニューヨークに仕事で行った時、ある作家のスタジオに招かれた。その時に作品の感想を伝えたら、通訳の方が「英語にできない!」と言う。それ以前にも自分の作品の説明をしてるだけなのに通訳の方が「英語にできない!」と言う。そう私は、日本大好きで、侘び寂びの美意識もマンガ、アニメの日本サブカルも大好きで、英語圏の文脈で作品を制作してないから、伝えられないのだ。本当に驚いたし、数年は理解できなかった。そこで一旦私は海外を諦めた。しかし絵で食って行くためにはドローイングだけでは無理だと気づかされる。ドローイングの値段を上げるにもキャンバスの値段を上げる必要がある。ざっくり言えばキャンバスの値段の1/3、版画は1/10くらいだったと思う。そして、ギャラリーを探し始める。40歳でポートフォリオ持って画廊巡りした(完全に心を折られた)。どういうギャラリーがよかったかというと、こうだ。私は、ギャラリーを複数変わっていて自分にも問題があるのは分かっていた。結婚して理解した。そう、結婚すると別れたくないからお互いが真剣に話し合って妥協点を見つけ出す。それだ!。探したのは、二人で運営してるギャラリー。そして片方が英語圏の人であること。私の作品を英語脳で見ても「良い」と思ってくれる人が必要だった。そしてその人が、その良さを英語で伝えてくれることが大切だった。当時、MISAKOA&ROSENは眼中になかった、理由は扱ってる作家が理解できなかった(詳しくは4へ)。現状、海外の戦略はギャラリーに任せている。英語のテキストとか送ってもらえるが読めないし、理解できないので、いつも「好きにやって下さい。」と返事している。日本語に訳してもらえれば良いのにっていうけども、私にとってそれは日本語になってしまうので意味がないし、そのレベルならネットで翻訳できる。ざっくり言えば、物事の自立(自律)のさせ方が文法で違っていて、それは作品の成立(作法)と直結している。


3)日本は作家性、英語圏は作品性を重視する。について:

これは、簡単で日本語とローマ字でググってみると良い。日本語で検索すると人(作者)の画像ばかり出てくる。日本人は、良い作品を見ると「これは誰が(どんな人が)制作したんだろう!?、どんな数奇な運命をたどってるんだろう!?」と考える。英語圏は、「他の作品が見たい!」と検索する。日本人は作家性(その人の生き方)が重要なので有名人が有利である。極論をいえば有名でさえあれば、作品の質はどうでも良い。ファン心理ですね。なので日本で作家活動するならば、先に有名になっておくのも作戦の一つ。


4)日本人はマンガ、アニメの影響で、画面の中にキャラがいないと絵が見れない。について、

これは、私が抽象画が全くわからなかった理由です。MISAKO&ROSENに興味を持って最初に伺ったのが、ネイサン・ヒルデンの個展でした。理解不能。しかし、理解しなければ明日は無いことはわかっていた(だからこそ、全く理解できない作家を大量に所属させてるギャラリーに興味を持った)。4時間会場にいました。まずどうして理解できないか、みんなが良いというのか考えました。知人に何度も質問。「何がすごいの!?、何を良いと言ってるの!?」。有馬さん!?マジで言ってる!?面白いね!と言われたり。「ん、、わからん!!」。そして美術の歴史を紐解いた。確か、キリストが描かれて、次は金持ちの肖像画、次が色と形。いや根本から違うかも。抽象画がわからないのは「マンガ」じゃないからだ!!。ではマンガと何が違う。主人公がいない!!。これでハッキリした。漫画は主人公を追って行けば、物語の背景を世界観を語ってくれる。しかし抽象画は案内人がいない。画面の中に主人公がいれば、まずそこからスタートだ。目線はそこから始めれば良い。でも主人公がいない、どこから始めれば良い、わからん、わからん」。そうか「部分ではなく全体をみれば良い」。そうこれが絵画の見方だった。その結果、画面の四つ角をどう処理するか、下地の重要性を発見して行く。今では、ネイサン最高!、リチャード・オードリッチ天才!!と言ってる自分がいる。


5)日本人は、デザイン、イラストやグラフィティーから入った方が世界にいける。について:

これはもう、まとめみたいなものだ。日本人が日本語で考えると日本の文脈がすぐ入ってくる。英語が読めるだけではダメで、英語を英語で理解して英語で話せるようにならないと。日本語は間と言う間に日本の美意識が大量に流れ込む。だから何を取り入れても日本式に成る。だが、デザインは違う。前提として時代性や共感が織り込まれているし、文化として新しいので、共通言語が多い上に英語圏からの影響が強い。物事は突き詰めればアートになって行く。ならばデザインからアートをして言ったほうが世界には通用する。


これらは40歳からペインティングを始めて10年、ニューヨークやイタリアで個展できるくらいには成ったレベルでの話だ。そして、これは、ギャラリーのテキストでも書かれている(*1)が独自の解釈だ。

しかしこれは、40歳までドローイングだけをやり続け国際展に出品したりした作家が生きるために真剣に家族を犠牲にして獲得した技術でもある。また、交通警備員を一年やって(*2)空間把握能力を取得したり、結婚して他者性を身につけたこともペインティングの上達を底上げしている。

今回の文章の異論は認める。わかりやすくするために、話をスッキリさせた。嘘は言ってないが事実と異なる解釈をされる場合があるだろう。以上。




(*1)http://www.misakoandrosen.jp/exhibitions/15/03/

(*2)http://arimaworks2011.blogspot.com/search/label/%E8%AD%A6%E5%82%99%E5%93%A1















2020-07-02

FAUST IN MARIENBAD by Ishinomaki2019

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KAORU ARIMA:
FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art:

 /202007

text:
FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art:
世界はやさしい、だからずっと片思いをしている。:
ART DRUG CENTER、キワマリ荘
キワマリ荘の作り方:
れんこんのなか:
この言葉たちに支えられ目標にして作品を作っている。:

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FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art:

思えば、私は作家性重視の生き方(ロードムービー)を選んだ。そして「アートとは何か。人とは何か。幸せとは何か。」を問い続けてきた。今回は5つの壁に5つのテーマがある。彫刻、ペインティング、ドローイングをテーマごとに展示する。「私(人)の内と外」、「途中と永遠」、「社会との関係」を形にする。5つの壁(5つの展示)を通して見える「私」の展示だ。そして人の在り方と生き方の展示。

21歳の時、ボイスの資料映像を見た。その時彼は言った。「コレを見て、わたしにもできる!と思ったら、それは君がアーティストだからだ。後はやるか、やらないかだ。」何者かに成りたかった私は飛びついた。続ければアーティストでいられる。気づけば50歳を過ぎていた。

この展覧会は、ファウスト(小説):生に執着し、努力し続ける行為。
去年マリエンバートで(映画):変化し続け終わらない永遠。
ミイラ肖像画:人の死と藝術による永遠。から影響を受けています。
この展覧会は、あなたにとって、始まったばかりですが、既に終わっていたり、未来で始まったりしています。形は在り方、生き方で変化し続けます、繋がり広がる線のように。

在り方:
1)線について
・空集の音の間に線は生まれ約束になる、約束は景に入り太極を持って風を待つ。
・手を重ねると線が生まれる。手を離すと線は消えるのではなく広がり、全てを繋げている。
2)人は「本来無一物」という空集合<空集の芽>を皆が持っている。
3)1)と2)より、外は外で、内は内で(共有)繋がっている。
・モノは視点や思いによって見え方が変化するが、本質は変わらない。
<うちはうちそとはそとのんじゃった>

生き方:
・ずっと途中で先端。
・生に執着し努力(変化)し続ける行為。
・寿命(枠)があるから瞬間が美しい。
・日常(日々)の中の美しさ。
・何もない」の中にある美(愛)。
・太極思想
・形にならないモノを要素(形)として作品にする。

まとめ:
形は在り方生き方で変化してゆく。
人(形)とは「何」だ。
人が生きるとは「何」だ。
<うのなとなのまにまにせもしもしらずいのまふるふる>
<FAUST IN MARIENBAD>
<The quest for Art>

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世界はやさしい、だからずっと片思いをしている。

まず、時を遡ろう。1997年(28歳)当時の私は、自己治療(昇華)中。理由は、思春期に「何の取り柄もない、落伍者、バカ」と、言われ続けていたコト、親戚が夜逃げ(父が連帯保証人だった)、我が家は借金返済のため全てを失い、その後離婚にいたり、極度の人間(自分も含む)不信になる。簡単に言えば、自分と社会を恨んでいた。後に「本来無一物という言葉を知ったり、人は一番大切なモノのために(良くも悪くも)嘘をつく」をポジティブに受け入れるまで。その頃に、とても隠微残酷な「ART DRACULA」展を開催する。その時の芳名録に岩田さん(犬山のキワマリ荘の大家、私設美術館の館長)が、こう記入していた。「せんは必要なくなったとき そこにあるのかもね」。全く理解できなかった。彼は「鑑賞は真剣勝負、殺し合いだ!。変なもの見せると死ぬぞ!」って人だった。
<ART DRACULA>
10年後の2007年(38歳)「マイクロポップの時代」展のために、水戸に引っ越すことにした。1998年にto the Living Room  展(ワタリウム美術館)で「半年住む」という展示をしていたコト。や、思いもよらぬ成功によって達成感が生まれ、作品が制作できなくなって(煮詰まって)いた、のもある。引っ越す時、岩田さんに、もらった言葉は「すべては覚悟の問題だ、頑張れ。」だった。
<岩田さんの餞別書道>
岩田さんの書は引っ越しても、常に目に入る壁に飾ってある。自分への戒めである。それから時が過ぎ2019年(50歳)。岩田さんも向こう側に行ってしまった。今、私が彼のような立場になっている。「せんは必要なくなったとき そこにあるのかもね」言葉の意味は今もわからない。今ここでしてることが「そこにある」のかも。
お前の作品は「アートではない」、「自分のためでしかない」と言われながらも、「それでもいい」と歩み続けて来た。そう、これは、芸「術」ではなく芸「道」に(目的を)覚悟を決めた人(文化系極道)の生き方でもある。そもそも「自分のため」以外の選択があると私には思えない。自分のためが「他者のためになる」か、他者のためが「自分のためになる」かの違いでしかない。「どちらが優れてる」ではない。個の追求の果てに他者性もある。全ては、繋がっている、生も死も夢も現実も。そしてずっと途中で、ずっと先端。生きる永遠、死ぬ永遠。
<うのなとなのまにまに せもしもしらずいのまふるふる>
これを岩田さんに見せた時、「お前そのものだな」と言われたことを今でも思い出す。
だから「何」だ、と声がする。
<個の追求の果てにある他者性と、その奥にある風景>
「ファウストを読め!!」岩田さんに再三言われた。思い出す度に読み返す。自己治療の作品が終わった後で、もう一度大成する作家は稀らしい。その代表がゲーテの「ファウスト」らしい。
いつか、向こう側に行って、岩田さんに会えたら、「世界はやさしい、だからずっと片思いをしていた。」って言うだろう。そして、多分「死ね!」って言われる。(終)/20190803

FAUST IN MARIENBAD  by Ishinomaki2019/RAF2019で使用したテキスト。

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ART DRUG CENTER:「アートは人の心を治療する薬である」から名付ける。愛知県犬山市のキワマリ荘内にあった多目的スペース。1997~2007年の10年間で141回の展覧会を開催。2019年宮城県石巻市にて再開。

キワマリ荘:愛知県犬山市に多目的スペースとして1996年にオープン。2007年に水戸に引っ越すことになり代表を変わる。2007年に水戸のキワマリ荘をオープン。2009年に千葉県柏市に引っ越す。前回同様に代表を変わる。2017年石巻のキワマリ荘をオープン。2019年に地元の作家に任せ、近所にART DRUG CENTERをオープン。

artrφn(アートロン)プロジェクト:TRONプロジェクト(1984年に始まった坂村健によるコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトで、「オープンソース」「オープンデータ」「オープン API」を標榜。)への共感にARTを加えた造語。アート(美)が簡単に制作や所有ができたらいい。アートのオープンソース制作プロジェクト。気になる作品があったら、描き写してアート(思い)を持ち帰ってください。artrφnのφは空集合を表す記号とキュービット(量子コンピュター)の0と1の重ね合わせのイメージ。

近況:「ネオギガ」展(1994):絵画は楽描きを極めればいい、「継続と日常」展(1995):日常がアートだ、「鑑賞と忍美。」展(2001):鑑賞の仕方で見え方が変わる。耐え忍んだ極みに美がある。ART DRUG CENTERは「アートは人の心を治療する」など、私は常にアート(美)とは「何か」を問い続けている「ロードムービー」だ。ここ最近は関係性だ、と思い色々してるわけです。そもそも新聞紙の作品(1998~)も関係性と当時から言われており、その拡張としての「街(石巻):キワマリ荘:ART DRUG CENTER」がある。


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キワマリ荘の作り方:
・あったらいいのに、無いモノ(場所)を作る。
・そこにいけば、仲間がいる。」という状況を作る。
・カリスマリーダーはいらない。その人が移動するとその場所に人がこなくなる。
・短期展望ではなく長期展望が重要。5年、10年先をみて動く。
・人よりも場を強化すること。
・失敗や成功を考えるより。やりたいことがあったら、やる。
・絶対に無理をしない。
・作家同士の感想(批評)を言い合える場所にする。
・一時的な話題性(を作る)に振り回されない。
・居間を作る。
・ここから、世界に発信しているという覚悟を持つ。
・良いモノは取り入れる。しかし、表面上のコトだけを真似ない。
・お互いに手を抜くから、グループ展はNG。ただし企画展はOK。
・一人一人の関係者は50人前後だが、3人個展できる環境があれば150人になる。
・展示期間は1~二ヶ月。一週間だと、いくら良い展示をしても、人が来れない。
・都会にあるギャラリーを目標にしてはいけない。関係者の数が圧倒的に違うし、情報の消費速度も違う。
・グループの思考が固まり澱まないように、風通しをよくするシステム(展示、企画)を作る。可能であれば、メンバーの流動があればなお良い。
・とにかく待ち、才能を集める(固める)。そして、目的を持った方向を決める。1年近く営業してると、静観してる人が動き出すので、その人達を確保。
・地元の未来を語る展示は地元の作家がやるべき。そういう場所を作り、育てようという場所。外部の作家やメジャーな作家に頼ってはいけない。自分たちが、そうなる。そうなるための展示をしていき、企画を立てていく。
・一般の人にあまり期待しない。彼らにとっては、単なる消費情報の一つ。自分たちも同じ事を他のジャンルに対してしている事を自覚する。
・ギャラリーは普通無料で鑑賞できる。なので、展示する側、ギャラリーはどうせ無料だし、と思ってしまうが、実は、その人の時間や交通費を使っている事を自覚すべき。千円使った時にもらえる満足度を用意。
・経済的豊かさよりも、個人の幸福度を上げる。
・絵画の作り方と似ている。点線面。まず下地(場所)、点(最初は首謀者)、点を集め、線に、そして面に。まず、首謀者の目立つ点を画面に起く。点を集め画面のバランスをとる。最終的に首謀者の点を消して画面を整える。さらにその場全体が点に成って新たな始まりの可能性。

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れんこんのなか:

不自由は自由の海に有る浮き輪。キレイとは整理整頓。うつくしさとは調和。机の上を「うつくしくしなさい!」とは言わない。うつくしいと感じる時は、後になってから、その瞬間は、自分も含まれてるから。左脳と右脳、連想と例え、アレとソレが同じだと感じる事、感謝と恐怖、表現の始まり。答えは始めから存在する、問題の方が重要だ。イコールの存在が厄介だ、同じにするために、数にする事。THE SUN COMPLEX & HEALING BY THE MOON。こころ」と言った。観た人の観たいモノへ。自分にとってのモノコトではなく感じる。指で自分の顔の中の骸骨を触る、外なのに中にある。コマとコマの間、見えていないものを観るためには。見せたいモノは絵じゃなくて、その向こう。モノの形よりも、モノのあり方に美しさがある。物語。誰が描いても、何枚描いても、美しさは劣化しない。空集の音の間に線は生まれ約束になる、約束は景に入り太極を持って風を待つ。天才と馬鹿が紙一重なら、馬鹿側からが近いはず。よわくなる。楽描き。五感の0時0分0秒を目指す。それでも生きてゆかねばならない。ここから、はじめよう。しゃかはきのした、だるまさんはあなのなか。ふゆのきぎ、えださきにあめのつぼみ、そらがさく。しごとはいきること、しゅみはせいかつ。みらいはえだとねのさきに、いきることはかこもみらいも。ゆるしかんしゃいかりのさきわれ。うちはうちそとはそとのんじゃった。わとわとわ。うのなとなのまにまに、せもしもしらずいのまふるふる。日が暮れ、ご飯を食べる、食べたいうちは生きたいんだ!と、感じる?でも、そういう所に、しあわせ」とか「うつくしさ」とかの、始まりは在る。つづく。みること、きくこと、かんじること、遠近法を使わないで、あること。昔、人は役割しかなかったのだろう、それに対応できない人が、バカにされ弾かれた、外に出れば、自由と孤独の狭間に何が生まれる、今や逆転。スイッチではなくボリューム。多神を包む海。バランス。時=流+刻+間。過去が存在するから、未来が生まれる、過去と未来があるなら「今」は点になる、今」が無くなれば、過去に縛られ未来が消える。過去は記憶、宇宙は「いま」しかない。aとbの間を移動する、その移動時間を無駄と感じるなら、一時間が十分になっても無駄。アートは人が自然(風景+時間+空間)を所有するための行為。身を守り、勝ち所有し、自らが自然(神)に成る、しかし、区切る事によって生まれるモノは本来の姿ではないから、永遠に自然に到達する事はできない、それが、狙いか。名を付けて所有する、要らないモノは外に出す、気づけば自分以外はゴミばかり。いのち」は何を所有しているのか、何か所有したいのか、もともと「いのち」は調和だし。いざと言う時、何を守るか、何を選んだにせよ、善悪はない、後で迷いさえしなければ。覚悟さえ決めていればどんなときでも、幸せだったりするのかな。わたしたちは、いつも永遠のはしにいる。わからでようとして、わをおおきくしてる、でるためには、わになるしかない、それでも、れんこんのなかだけど。ひとはわのなかを、じぶんのものとおもう、まるいたまのまんなかに、せんをひいたら、どちらがじぶんのもの。せんじたいがじぶんだ、ときづいたとき、わからせんになる、それでも、れんこんのなかだけど。きらなきゃいっぽん、はながさく、となりのはなが、ちょっときになる。しあわせ。等間隔に刻むリズム。今思う、続ける事は難しい、特に現状維持は難しい。ぬくもり、あんしんかん、しんじて、うたがわず、いつか、わたしも、そとからか、なかからか、そして、ありがとう。と、

2009/11/06  有馬かおる

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この言葉たちに支えられ目標にして作品を作っている。



<一休宗純>
有漏路より無漏路へ帰る一休み
雨降らば降れ風吹かば吹け

生まれては 死ぬるなるけり おしなべて 
釈迦も達磨も猫も杓子も

白露の おのが姿は 其のままに もみじにおける くれないの露
年毎に 咲くや吉野の 桜花 木を割りて見よ 花のありかを

あるとみて なきは常なり 水の月
ないとみて あるは常なり 水の月

<良寛>
ぬす人に取り残されし窓の月
裏を見せ表を見せて散る紅葉

<小林一茶>
馬の屁に目覚めて見れば飛ぶほたる






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FAUST IN MARIENBAD series:

FAUST IN MARIENBAD  by Ishinomaki2019
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RAF2019の私の展示は右回り、左回りでタイトルが違う。左が「世界はやさしい、だからずっと片思いをしている。」、右が「FAUST IN MARIENBAD  by Ishinomaki2019」。今後私の展示タイトルは「FAUST IN MARIENBAD  by xxxxxx 」。そう言う展示。
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FAUST IN MARIENBAD by Paris 2019

FAUST IN MARIENBAD by The quest for Art/2020
http://www.misakoandrosen.jp/exhibitions/20/03/index.html