2018-02-22

最近、よく「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えた。


ドローイングでは小乗と生きるコト、
ペインティングでは大乗と死ぬコトを意識。

ドローイングは作品と作者の距離感が近すぎるから客観的に作品を観れるまで放置。
その期間は1~5年。何度も加筆し、その期間に65%は廃棄。
いいと思える作品は何年経っても変らずに良いので、そう言う作品を展示する。
これは、金にならん完全に趣味の世界。



どっちかじゃないとダメみたいな世の中ホント生きにくい。逃げる、避ける」という選択を卑怯と言う社会も。恐怖をあおり、判断を鈍らせ、究極の二択に誘導する。



タブーは無い様でたまにある。作品批評で「これはダメだよ!」って言われて、ソレが道徳的なコトだと。金脈を発見した気になる。たまに、ソレに気づいてなくて、落ち込んでる作家がいると、パクりたい気持ちを抑えて教えてあげる。私は私で、現在進行中のタブーやぶりで精一杯。


最近、よく「作品の行き詰まり」の対処方について聞かれるので、考えた。

ほぼ、達成感、マンネリ(自己模倣)による行き詰まり。初心に返る、何を表現しようとしていたのか。技術(思考)的変化なら、ズレ、抜き、ねじれ。ここに来るまでに、捨てて来た技術の探り直し。限界なら、作風変えるのもありだけど、鑑賞者がそれを望むなら、その人達のために作る。それが、嫌なら、家族のためと、制作することが望ましい。子供の頃に知った知識だが、有名な味噌ラーメンの宣伝文句「変らぬ美味さ」。しかし、何年か毎に味を少し変えているらしい。客が味に慣れ、飽きるから。ホントかウソかは問題ではない。なぜ心に残るのかが重要。
日本のアーティストは達成目標が低い(それさえも達成困難な状況だからだが)。でもそれは、仕事として考えてないから。自己満足、自己治療の延長(覚悟決めれば、それも悪くない)。私から観ると、いやいや、もっと行けるよ、そのテーマで!と、思うこと多い。


日本人がアートを本気で突き詰めると日常に成る。日常になれば、なんでもありに成るので解りにくい。デザイン、イラスト、グラフィックを極めて行ってもアートに成るとしたら、こっちの方が向いている。


しくじり」ではなく意図的に失速したのだが、改めて始めると、思った以上に前に進まない。同年代有名作家と比較すればいい。何が違うのか一目瞭然だ。素(だけ)とアートを理解して制作するのでは、共感性(これ重要)も持続力も違って来る。間に合わないけど、勉強をするしかないから困る。


英語を英語として理解できて初めてコンテンポラリーアートが理解できる。脳内で日本語に変換しただけで、単語や行間にわびさび、よびつぎ、間、幽玄などの美意識が入り込んでくる。日本国内は、ほぼ翻訳アート(悪いとは思わない)。日本語脳で、英語のできない私はギャラリーに頼る。


美術館を手玉にとった男」観る:
30年間、名前や場所を変え贋作を作り続ける。発見されるが「寄付だから」罪に問われない。話題になり個展開催。有名に成り過ぎ、美術館に「贋作」を持って行けない。皆から「オリジナルを描けと言われる」。その彼が選択した道が凄い。なんかもう童話の世界。


カルテル・ランド」(ドキュメンタリー)観る。:
なんか観た事あるストーリーだと思ったら、デュラララ シーズン1(アニメ)の最後のカラーギャング抗争に似てた。こうやって敵の組織を吸収して行くフォーマットができあがってるんだろう。知ってっても、止められないのかもな。なので、ボーダーライン」(映画)の様な事に成って行く。


Gのレコンギスタ」(2014)観る。:
ガンダム系譜の一番の未来。絶望的に難解。なので、いきなり衝撃のラストシーンに行く。
主人公がいきなり富士山の山頂に向かう(それまではアメリカ、ヨーロッパの様な場所が舞台)。山頂に着く。普通なら、汗拭いて、乱れた髪の毛が風に揺れ、達成感の後のドリンク、、。そんなの無い、なぜならロボットに乗っている。そして、これから世界一周だ!」と、ロボットに乗って降りて行く。ロボットは「富野 由悠季の今までの仕事」ってコトだろう。この状況が良いとか悪いとか言ってない。これが「現状」ってことだろう。

このアニメ、ググると難解、失敗と出て来る。
分かる気がする。ストーリーがまったく理解できない、もしくは、しずらい。
たとえば、全て(人名、グループ、場所、建物、乗り物など)に(よくわからない)名前があり、(何の説明も無く)会話の中に、どんどん出て来る。その名前が、場所、人、乗り物か全然分からない。はっきり言えば、何がどうなってるのか分からない。
さらに、戦闘中に「なぜあの機体がココにある!」の後に「なるほど、、」で別のキャラが「そうだろっ!」っと、戦闘に参加して行く感じの場面(その間5秒ほど)。まったく状況が理解できない。
これ、テレビ放送で観てたら世界観についていけない。
ここで、富野 由悠季が「こどもの為に制作した。」っていうのをポジティブに考える。
すると、上記の様な、考え方をする大人に成るなってコトかもしれない。
すぐに答えを知ろうとするな、自分で考えろ。」と子供達に伝えたかったのかもしれない。


ラジオで、片思いは可愛く、両思いは奇麗に成る。と言ってた。以前、恋愛は才能、結婚は忍耐を鍛える。とも聞いた。


仮面ライダー ドライブ」観る:
最後に、敵と協力して神を倒すんだけど、これ、マトリックスにも、こんな未来もあったってコト。
前半が絶望的につまらないが、それを超えれば最高。
同族殺し、親殺し、自己否定が仮面ライダーの三要素なのだが、このキャラが主人公ではない!
斬新!。
主人公が車に乗ってるから、違和感はあったんだよね。
親殺し、神殺し、ライバル対決がみごとに割り振られてる。
人間vs機械モンスターが、
後半から機械モンスターを作ったモノ(親)vs息子と
機械モンスターを作ったモノ(神)vs機械モンスター。
最終回、親に勝ち、神に勝ち、まっさらな状態で、ライバル対決。
これを見終わった時、マトリックスも、こういう終わり方があったのか。
一神教では無理なのかもな。
だとしたら、このおさめ方は斬新だ。


バットマン対スーパーマン観る:
宇宙人(や神)でさえ、強い男=筋肉ムキムキって設定って、後どれくらい持つのかな。




同級生」というBLのアニメ観た。ライトな感じの。画面が、あだち充っぽいのか、かぐや姫っぽいのか?となりの山田君のほうか?。でもキャラは少女マンガ。あの独特の男の指の描き方。指が触れる場所の意識とか面白い。FREE観た、流石京アニ、水の表現力凄い。ベースにポニョあるのは解る。




数年で物が増えた。絵画関連本。私は、持っているモノが全て燃えてもいい、という感覚。思春期に全部無く成った事があるから。その時から、モノは人にとられる」と思い込み、それが、所有する恐怖に繋がる。他者からの贈り物も怖い。戻るべき場所。あるべき場所が無いからかもしれない。

人にとられないモノ、絶対に無くならないモノ」の探求をする。場所を作り、絵日記の様にドローイングをし、探りを入れる。私の生きた時間が線に成って残っている。家が燃えて、全てが墨に成った時、その墨で絵を描く。そんな状態だった、毎日毎日、わら半紙に鉛筆の線を引っ張った。それが生きるコトだった。

毎日引っ張った線が、世界中に散って行く。過ごした時間、過去の時間。生きた時間が分散してゆく。今日は、雨の音が愛おしい。50円セールで買った小説を何冊か読んだ影響か。



人生かけてますね」「そうかな」人生かけてない人生ってある?、ああ「かける人生がもう無いのか」歳をとるわけだ。


心の闇やトラウマ退治などの解体法を学ぶにあたって、京極夏彦の百鬼夜行シリーズをかなり参考した。曖昧な記憶(映像)を言語化し、別の角度から光を当て、解体する。今だと西尾維新の物語シリーズがそれに当たるんだろうなと、アニメ観ながら思う。


俺はウジ虫だ。だが、絶対に生き抜いて翼を手に入れてやる。と、かなり(20年以上)前の手帳に書いてあって、その生命力にちょっと「いいな」と思ってしまった。


批評が出来ると良いけど、感想しか言えない。そう言う人は、自分にしか描けない絵を追求するしかない。と、いうか、それしかできない。批評が理解できる人は、どんなモノでもアートにできるし、共感性も社会性も高い。解っているから、色々やってみるのだが、


水戸に引っ越した(2007年)直後の文章に、達磨の絵を描いた。
後に、一筆描きに成り、「うちはうち そとはそと のんじゃった」。自分にとって、線とは何かの答え。
達磨を針金で制作し空間的に成る。線の見える部分は氷山の一角で、紙の中や、空間に消えている。個を極めると他者性とか関係性に行き着く。この後、風景に「色」を確認。見えてしまうと、以前どのように風景を観ていたのか思い出せない。