2014-02-17

人は、これを、迷走という。



相変わらず、キャンバスに描きたい様に描いてるのだが、
人は、これを、迷走という。

そう言われると、
自分でも、そうかと思い、迷走に拍車がかかる。
何がしたいのか?と、問われる。
自問自答。
その度、答えは出すのだが、毎回変る。
なぜこれが、問題なのかと言えば、

私も、鑑賞者も、それをネガティブに、とらえているからだ。

そこで、改めて考える。
これは、悪い事なのか?
ネガティブなことなのか?

簡単に言ってしまえば、
明確な目標が無い事。
もしくは、鑑賞者にそれが伝わっていないこと。

そもそも、私には目標らしいものが無い。
重要なのは「行為の継続」。
まあ、それが、目標と言えば目標なのだが、
それは、
絵を描いてればいい。
それだけで良い。

すでに、ここで、目標は達成している。
のだが、鑑賞者が観ている目標は、その後の事なのだろう。

此処で終わるのは、自己満足で、
それでは、いけないってことだろう。

作家が、悩んだりすると、
好きな事すれば、いいじゃん!って簡単に言うけど、
実際それが、目の前に現れると、拒絶感からの寂しさに耐えられないのかもしれない。
この作品の拒絶感たまらねえ!って人もいるとおもうけど。
まあ、
全ての人から、拒絶される作品作れたたら、
それは、それで、とても凄い事だと思うが、、矛盾するのか。
それは、可能なのかな。

全てに噛み付くのは、甘えてるだけだし。
この世の多様性を超えた、拒絶。
やれるもんなら、やってみろって、感じなのかな。
生まれたての赤ちゃん。

話が、それた。

自分の中の多様性と関係性を、
正直に、描いてるだけなのだが、、。

しかし、
ドローイングは、ともかく、キャンバス作品は、
金もかかるし、場所もとるから、買い手がいないと、とても困る。
のは、確かだ。
ドローイングは1000枚あっても、鞄に入る。

迷走な。
何がしたいのか。
何かしないと、いけないのか。

よくよく考えると、
以前は、キワマリ荘という、スペースを持っていて、
作品が、まとまれば、好きな時に展示してたし、
部屋数があったので、4部屋とか、普通に使っていた。
こういう状態が、長く続きすぎて、
現状の、展覧会の少なさに、フラストレーションがたまっているのかもしれない。

違うな。
一部屋で、前やってたような、イメージで展示すると、
言いたい事が多すぎて、
何が言いたいのか、分からない。って言われるのが、嫌なのだ。
それが、わかっていて、
それを、解消する手だてが無いから、イライラする。

一部屋で、できない事も無い。
以前の様に、自分の部屋みたいに、すれば良い。
しかし、それでは、日常性がべったり付いて、
作品を作品として、鑑賞するのは難しい。
ドローイングは、それでもいいけど、、。

あれも、これも見せたい。
何のために。

必要とされたい。
リアクションが欲しい。
どっちかと言えば、
必要とされなくてもいいから、リアクションが欲しい。
たとえ、それが悪口でも。
関係性。
ただ、寂しいだけかな。
ん、
それが、
あれもこれもに繋がるのかな?
あれもこれもは、やはり、ただの甘えだな。

絵で、世の中が変わるとは、思ってない。が、
絵で、生活は変わる。
体に身につける、ジュエリーの様に、
生活の、部屋のジュエリーに成る。

絵で、仕組みを変える事はできない、が、
空気は変えられる。

まてまて、そんな大きな話は、置いておこう。
今は、迷走だ。

自分の中の多様性と関係性。
自分を外す事は、できるのか。
自分で、絵を描いておいて、それを成し遂げれるのか。
まあ、絵画の匿名性は、ある種のテーマだ。

自分というか、一人の人間としての、、、ならいいのかな。
多様性とか、関係性は、どこかに、基準(杭)を置かないといけないし。
それないと、ただのバラバラ。

杭は、自分以外で、可能なのかな。
人じゃなければ良いのか。
でも、結局、自分主観入るか。

多様性と関係性」ってコラージュといっても良いし。
で、
これを良しとして、どうしたいのか。
何を伝えたいのか。

自由。

絵画の革命は、何かを、自由にした時に生まれている。
絵画でこれ以上の自由は、ないのかな。
何のために、自由が必要なのだ。

鑑賞者に受け入れられないものを、持っているのは、チャンスだ。
ここで、重要なのは、
自然では無く、自由ってことだ。
自由には、ルールがある。

んんん、、。

違う。
自由じゃない。
解放だ。

悩みや、トラウマは、名前(画像)で縛れば、解体できる。
で、解放。

キャンバスで言えば、枠からの解放。
心の解放が終わったから、
湯水の様に湧いて来た、ドローイング欲求は無くなった。
で、キャンバスか、、、。

なるほどな。
ここには、
キャンバスからの解放と、
他者のに対しての何かの解放がある。
そのキーに成るのが、多様性と関係性。
か。


次の個展こそ、キャンバスだけで、展覧会してみたいが、
できるのかな。
キャンバスだけでも、バリエーションが、ありすぎる。

普通なら、どれかに、技法とか、見方を絞るのだろうが、
それには、明確な目標や、テーマがいる。

それを絞れない。
何が正しいとか、無いからだ。
たしかに、その時、その時に、答えは必要だが、
それの、善悪、正否は、別の問題。

よって、観ようによっては、
ただただ、テクニックの実験をしてるようにしか見えない。
キャンバスの作品は、今は、そう言うとこあるので、否定できない。

多様性と関係性。
これは、前から、そうなのだが、キャンバスを始めた事で、
手に負えなく成って来た。

俺は何がしたいのか。
鑑賞者の事考えなければ、この悩みは存在しない。

なんだかんだ、いいながら、
私は、鑑賞者の事を考えている。と言う事か。
考えてるから、悩んでいる。
これは、とても、普通で、健全だ。

と、鑑賞者との、折り合いで、話を終わっても良いのだが、

自分でも、たまに、俺は、何がしたいんだろう!?って思うからな。
問題の解決に成ってない。

今、20年ドローイングをして、潜り続け分かった事は、
問題なのは、深さでは無く、潜っているという行為だった。
溺れている。と言っても良い。
溺れる場所に深さは関係ない。

これだと、作品自体の価値が下がるのかな。

ともかく、
絵を描いていて、不安に成るのは確かだ。
迷走も、その一つ。
なぜ、迷走するのか。
悩むのは良いけど、迷うのは良く無い。って誰か言ってたけど。
迷いは、考えてないってことか。
とりあえず、色々やってみる。を、ずっと、やってては、ダメなのだろう。


疲れた。

今日の答えは、

行為(多様性と関係性)の継続。
それは、観るとは何か」の探求。
で、解放。

と、言う事にしよう。
何のために、は、また今度にしよう。



行為(多様性と関係性)の継続。観るとは。解放。